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東京高等裁判所 昭和28年(ネ)1556号 判決 1958年10月24日

控訴人 笹井熊太郎 外四四名

被控訴人 長窪古町承継人長門町古町財産区

主文

原判決中原告の請求を認容した部分(主文第一、二、三項)に対する控訴は、これを棄却する。

原判決中反訴請求を棄却した部分(主文第四項)を、左のとおり変更する。

被控訴人は、長野県小県郡長門町大字古町字仙ノ倉四千六百十三番山林十四町六反四畝歩につき、秣刈取、薪採取(薪は同所に自生する若小木及び自然生樹木の下枝等を採取すること)に関する控訴人等の入会権の行使を妨害する一切の行為をしてはならない。

控訴人等その余の反訴請求を棄却する。

訴訟費用は本訴及び反訴を通じ、原審において生じた分は凡て控訴人等の負担とし、当審において生じた分はこれを三分し、その一を被控訴人その余を控訴人等の各負担とする。

事実

控訴人等代理人は「原判決を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。被控訴人(反訴被告)は長野県小県郡長門町大字古町字仙ノ倉四千六百十三番山林十四町六反四畝歩の地上に生立する秣薪炭木及用材林等に対する控訴人(反訴原告)等の入会権に基く権利行使を妨害する一切の行為をしてはならない。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張は、被控訴代理人において「(一)仙ノ倉日影平につき、秣刈取に関する山の口明通知が長窪新町次で同古町より和田村又は青原に対してなされた事実はあつたが、これは青原を入会権者と認めた上でなしたものでなく、一般に自村地籍内に他村民が山林原野等を有する場合、慣行上入会山の口明まではその所有者と雖も秣刈取を禁ぜられていた関係上、刈取開始の日をこれに対し公示するため、その部落又は村に宛てて口明通知をしていたものである。そして仙ノ倉日影平については長窪新町と古町のみが入会権を有していたので、右口明の日を何日とするかは両村協議の上で決定し、入会権者に非ざる青原は右協議に加わつたことはないのである。(二)長窪古町は明治三十六年頃既に町費を以て本件山林の植林及び監視をなし、明治四十二年には本件山林の立木全部を金二千円を以て売却し、その後皆伐した跡に県の補助金を受けて植林し、山林監守委員を置き、防火線を設けてその育成に努め、爾来造林経営を続けて今日に至つている。(三)控訴人等が係争山林より栗松等の用材を切り出してこれを家屋の建築、修繕材料等に使用した事実はなく、仮りにその事実があつたとすれば、それは無権限でなした盗伐行為というべきである。(四)昭和三十一年九月三十日地方自治法第七条第一項の規定により長野県小県郡長窪古町、同新町、大門村を廃し、その区域を以て長門町を置いたところ、同法第二九四条の規定に基き同町告示により長門町大字古町(旧長窪古町)地区に財産区を設置し、本件山林は長門町古町財産区の管理する土地となつた。」と述べ、

控訴代理人において「(一)仙ノ倉日影平の係争地が官有地となつた事実はない。それは入会各村に属する公有地となつたもので、長窪古町はその公有地について民有地編入の願出をしたものである。従つて官有地編入と共に入会権が消滅したとの被控訴人の主張は全く事実に反する。(二)被控訴人の主張する寛文年中の済口証文なるものは、長窪古町と新町間における大沢山の争論につき作成されたもので、和田村青原とは本来何等の関係がない。和田村名主はこの済口証文に扱人として連署したが、入会権者たる青原区はその権利を放棄した事実はない。(三)被控訴人の主張する町村廃合並に財産区設置の事実は認める。」と述べた外、原判決事実摘示と同一である。

証拠として、被控訴人は甲第一ないし第十四号証第十五号証の一、二第十六号証の一、二、三第十七号証の一、二第十八号証第十九、二十号証の各一、二第二十一号証第二十二号証第二十三号証の一、二第二十四ないし第三十六号証第三十七号証の一、二(写)第三十八号証の一ないし八(写)第三十九ないし第四十五号証第四十六ないし第四十九号証の各一、二第五十、五十一号証第五十二ないし第六十号証の各一、二第六十一号証第六十二号証第六十三号証の一ないし三第六十四ないし第六十八号証第六十九号証の一、二第七十号証第七十一号証第七十二号証のないし六第七十三、四号証の各一、二第七十五ないし第七十九号証第八十号証の一同二の一ないし三同三の一ないし四同四の一ないし三第八十一号証第八十二号証の一、二第八十三号証の一ないし七第八十四号証の一ないし二十二第八十五号証の一ないし十第八十六、七号証の各一、二第八十八号証第八十九号証の一ないし五第九十号証第九十一号証第九十二号証の一、同二の(イ)(ロ)(ハ)(ニ)第九十三号証を提出し、原審における証人児平寿太、桜井義博、丸山登、吉見鉄平、丸山紫朗、樋口圭重、龍野一郎、龍野広、丸山覚平、石合九郎兵衛の各証言、承継前被控訴人代表者小林大吉尋問の結果(第一、二回)及び検証の結果、当審における証人石合九郎兵衛、清水登平、丸山登、芹沢忠三郎、龍野広、小林大吉の各証言、承継前被控訴人代表者丸山一男尋問の結果(第一、二回)及び検証の結果を援用し、乙第一ないし第六号証第八ないし第十三号証第十九号証第二十号証の一、二第二十二号証第二十九号証第三十号証第三十四号証第三十六号証第四十一号証第四十二号証の一第四十三号証の三第四十四号証ないし第五十号証の成立は不知、第十四号証第二十三、四号証の成立は否認、第三十一ないし第三十三号証が和田村役場に存する書類の表紙であること及びその余の乙号各証の成立(写を以つて提出したものについては原本の存在とも)は認める。乙第二十七号証送籍簿上欄の各割印が乙第二十四号証の戸長役場印と同一印影であり、また乙第二十九号証城戸保家太名下の印が乙第十四号証のそれと同一であることも認めると述べた。

控訴人は証拠として、乙第一ないし第十九号証(第十八号証は写)第二十号証の一、二、三第二十一ないし第二十五号証(第二十一号証は写)第二十六号証の一ないし五十三第二十七ないし第三十七号証第三十八、三十九、四十号証の各一、二第四十一号証第四十二号証の一、二第四十三号証の一、二、三、第四十四号証の一、二第四十五ないし第四十八号証第四十九号証の一、二、三第五十ないし第五十二号証を提出し、原審における証人城下はるき、篠原四郎、竹内国勝、植原峯吉、竹内金次郎、羽毛田新一の各証言、控訴本人城下良五、城下元一、城下良一、丸山良雄、城下磯右衛門、笹井慶市、城下善一郎、城下仁平、城下快顕、笹井熊太郎(第一、二回)の尋問並に検証の各結果、当審における証人上原利平、羽田敬明、工藤悌、龍野喜四郎、辰野原四郎、原田義吉、鷹野雄治、原田昌一、小松小三郎、城下利三郎、堀内健記、辰野保、笹井濃、城下守彦、大沢小助、加藤忠安、小松十二、小合沢富雄の各証言、控訴本人丸山良雄、笹井熊太郎、城下良五尋問の結果及び検証並に鑑定の各結果を援用し、甲第十号証第九十号証の成立は否認第九号証第十一ないし第十六号証の三第二十一ないし第二十三号証の二、第二十七号証第二十九号証第六十二号証ないし第六十五号証第六十七号証ないし第六十九号証の二第七十四号証の一ないし第八十号証の一、同号証の二の二同号証の三の一、二、三同号証の四の二第八十二号証の一ないし第八十五号証の八同号証の十ないし第八十九号証の五第九十二号証の一はいずれも不知第八十号証の二、一、三同号証の三の四同号証の四の一、三第八十五号証の九の印の成立は認めるが他の部分は不知第九十一号証第九十二号証の二の(イ)(ロ)(ハ)(ニ)のうち城戸保家太の印の成立は認めるが他は不知、その余の甲号証の成立を認める、甲第四ないし第八号証を利益に援用すると述べた。

理由

本件係争の山林は、現在公簿上、長野県小県郡長窪古町(後に町村合併により、長門町大字古町となる)字仙ノ倉四、六一三番山林十四町六反四畝歩で、同町の地籍に属する。同所は同郡和田村青原部落の北西に連る仙ノ倉山(海抜千米余)の尾根より山麓の沢(和田村ではこれを境沢と称する)に至る北側の傾斜面で、俗に仙ノ倉日影平と呼ばれる区域である(成立に争のない甲第一号証の土地台帳謄本の記載及び原審並に当審における検証の結果参照)。

右仙ノ倉日影平の土地については、古来よりその所属並に入会関係につき隣接各村間に幾多紛争が繰り返された。即ち、成立に争のない甲第二ないし第八号証第十七号証の一、二第十八号証第十九号証の一、二第三十七号証の一、二第六十一号証第九十三号証乙第七号証第十七号証第十八号証、当審証人右合九郎兵衛、小林大吉の各証言により成立を認める甲第十ないし第十二号証第十五号証の一、二第十六号証の一、二、三当審証人小林大吉の証言により成立を認める同第六十二号証第八十九号証の一ないし五、原審における控訴本人城下快顕の供述により成立を認めうる乙第一ないし第六号証第八号証、当審における控訴本人笹井熊太郎、城下良五の各供述により成立を認めうる同第二十二ないし第二十四号証第三十号証(なお乙第二十四号証は同証中長窪古町戸長役場印が成立に争のない同第二十七号証送籍証上欄における同役場割印と同一であることからしても、これが真正に成立した文書であることを推認しうる)、当審証人小合沢富雄の証言により真正に成立したものと認める同第四十六号証第五十号証、原審並に当審における証人石合九郎兵衛、小林大吉(但し小林大吉は原審において原告代表者本人として尋問された第一回分)、控訴本人城下良五、丸山良雄、笹井熊太郎(原審第一回分)、原審における証人龍野広、篠原四郎、控訴本人城下磯右衛門、城下快顕の各供述(以上何れも次の認定に牴触する部分を除く)を綜合すると左の事実を認めることができる。原審並に当審で取調べた各証人並に当事者本人の供述中、以下認定に反する部分は採用し難く、その余の証拠によつてはこの認定を覆すに足りない。

一、享保十六年中、和田村に対し仙ノ倉係争地に水防林(川除御林)を設置すべき旨の官命があつたのに端を発し、長窪古町同新町(もと長窪村と称し、一村であつたが寛永七年分離して両村となる)より右区域が長窪両町住民の秣薪を採取する共同入会山であつて、長窪分に属することを理由にその植林差止方を訴え出たところ、和田村も依田川に流入する沢(境沢)より武石村山境に至る線を村界とし、境沢西南方仙之倉山は凡て和田村に属し、青原区民の入会地なる旨主張して譲らず、多年論争を重ねた結果、宝暦四年戊十一月江戸表において、仙之倉日影平秣山を長窪古町同新町と青原との入会とする旨(双方共入会期間につき別段の制限を設けず)和解が成立し、済口証文を奉行所に差入れて訴訟は落着した。しかるに長窪古町地元民(惣百姓)は村役人のなした右和解の内容につき不服を唱えて再訴に及び、幾多の曲折を経て漸く宝暦六年子十月青原区民の沢道を通ずる入会の期間を三月十五日より七月十五日迄(但しこの期間はその後慶応元年丑九月更に改訂された)と制限する外前同旨の諒解成り、重ねて済口証文を作成し、永きに亘る争訟も遂に解決を見るに至つた。

二、このようにして仙ノ倉日影平に関する紛争は長窪古町同新町和田村(青原)の三者共同の入会とすることにより一応解決したけれども、最初の済口証文の上ではその地籍は寧ろ和田村にありとされ(「三峯より」沢へ見通し境相建候事)、従つて和田村は依然これを自村持山であるとなし、同村の公簿たる宝暦七年丑七月作成「和田村持山町歩書上帳」に「仙ノ倉日影平一、入会一ケ所是ハ和田村長窪古町同新町三ケ村ニテ入会申候」と記載し、明治十二年六月作成の同村備付絵図面に該区域を同村地内千ノ倉六千百七十七番山秣場十六町歩と表示したのであり、延いて地租改正後一時土地台帳の上においても和田村仙之倉山六、一七七番原野十六町歩官有地として登載されるに至つた。しかし前記済口証文の記載に拘らず、長窪古町同新町側としては、その後も仙ノ倉日影平の地域を和田村分とせず、常にこれを長窪新町地籍(即ち同町地元)に属するものとして取扱つていたのである。

三、しかるところ、地租改正に伴う明治五年二月二十四日大蔵省達第二五号地所売買譲渡ニ付地券渡方規則並にその追加規定たる同年九月四日同省達第一二六号等によれば、数村入会地は官有地とは別に当該村々の公有地とする旨定められ、更に明治七年十一月七日太政官布告第一二〇号地所名称区別改正法同日太政官達第一四三号により、公有地の名称は削除され、地所は凡て官有地と民有地の二種に区分されるに至り、公有地は従来土地使用の慣行実蹟等に照らし、民有の確証ありとすべきものは民有地に然らざるものは官有地にそれぞれ編入することとなつた。そこで明治十三年三月十五日長窪古町同新町は和田村代表者の立会を得て協議の上、従来長窪新町を地元としていた字仙ノ倉日影平の入会秣山につき、改めて長窪古町を地元と定め、和田村承認の上で同年五月二十七日古町新町両町の連署を以て該地域を民有地に編入されたき旨願出たところ、同年六月一日長野県令より民有地第一種編入を許可され、地租を納付するに至り、同十六年九月十日付で持主を長窪古町とする同町字仙之倉四千六百十三番原野十四町六反四畝歩の地券が長窪古町に下付された(なおこの事につき嘗て和田村青原部落が異議を唱えたような事跡は証拠上全然認められないので、同部落としてもそれに異存なかつたものと一応推認し得る。)。

四、一方和田村仙之倉山六、一七七番台帳面積十六町歩の国有原野は、後年所轄大林区署係員が境界踏査のため、関係町村長立会(和田村長も立会)の上で実地調査をした結果、右長窪古町所有地と重複することが判明し、長野大林区署長の通知に基き、明治四十三年八月十七日土地台帳より削除された。

以上の沿革によつて見るに、本件係争区域たる仙ノ倉日影平は往古より長窪古町同新町及び和田村青原区の共同入会地で、地租改正後右村々の公有地たるべきところ、関係各村の合意に基く民有地編入願が許可された結果、長窪古町の所有とされ、同町は地券の下付をも受けて完全な権利を取得したものであることが明かである。被控訴人は係争地は一旦国有地に編入されると共に入会権は消滅し、その国有地が更に長窪古町所有として民有地に編入されたものであるかの如く主張するけれども、これは本件土地が嘗て土地台帳上、和田村字仙ノ倉山国有原野として重複記載されたことを唯一の根拠とする以外、確たる証拠なく、採用の限りでない。また条理上から言つても一旦国有に編入された土地を更に民有地に編入する場合には、払下、下戻等何等かそれ相当の手続を必要とすべく、その手続によらないで直ちに民有地に組替えることはなかるべき筋合であると思われる。しかしそれは何れにせよ、本件係争地が民有地編入により長窪古町の所有と確定したことは変りがない。仮りに右民有地編入による所有権の帰属を論外に置くも、長窪古町は爾後所有の意思を以て善意無過失平穏且つ公然に本件土地の占有を継続し、時効によつてもその所有権を取得したと認むべきことは、原判決説示のとおりである。(後記のとおり、長窪古町は明治三十六年頃より仙ノ倉日影平に植林をし、監視人をして見廻らせ、その後も植林管理を継続して来たのであるから、既に地券の下付を受け、地租を納付していた同町が該土地を所有の意思を以て善意無過失平穏且つ公然に占有していたことは明かである。従つて民法施行と同時でなくとも遅くも明治三十六年より起算し、その後十年の経過によつて取得時効完成したものというべきである。)

次に仙ノ倉日影平の本件土地が往古より長窪両町及び和田村青原の共同入会山であつたことは、前段認定のとおりであるが、その入会慣行は明治時代に入つても変ることなく、殊に長窪古町が民有地編入許可により土地の所有権を取得した後も、何等影響を受けずして継続し、長窪古町は和田村青原の入会権を承認し、従前の地元長窪新町に代つて入会権者たる青原部落に対し入会山の秣刈取開始を通知する口明通知を発することとなつた(被控訴人は和田村又は青原に対する右口明通知は、必ずしもこれを入会権者と認めてなしたものでなく、青原区民が入会地に土地を所有しており、かかる者も山の口明までは自由に自己所有地で草刈をなし得ない慣行があつた故、口明の通知をしたにすぎないと主張し、当審証人石合九郎兵衛、龍野広、小林大吉、承継前被控訴人代表者丸山一男等はこれと同旨の供述をするけれども、その供述の基礎薄弱であり、前記乙第二十四号証によるも民有地編入後に長窪古町が和田村の入会権を承認していたこと明かであるので、該主張は到底是認できない)。また青原区は明治二十九年五月羽毛田市郎平所有にかかる係争地入口附近の長窪新町字仙ノ倉一、九四七番山林五畝二十七歩を、日影平入会のための通路とする目的を以て借用し、更に明治四十二年三月二十三日本件係争地を要役地として南側長十五間幅五尺の範囲に亘つて右土地に通行地役権の設定を受け、同年七月二十八日その登記を経由し、これを通路に使用して入会権を行使して来たものである。以上の事実は、当審証人石合九郎兵衛、羽田敬明の各証言により真正の文書と認むべき乙第十ないし第十三号証、和田村役場保管の文書で、当審証人上原利平の証言により真正に成立したものと認める乙第二十九号証中の城戸保家太の印と同一印が押捺してあることに徴し、真正に成立したことを認めうる乙第十四号証、成立に争のない同第十五号証、当審における控訴本人笹井熊太郎、城下良五の各供述により成立を認むべき同第十九号証、前掲乙第二十二号証第二十四号証と原審並に当審における各控訴本人尋問の結果、原審証人竹内国勝、竹内金次郎、当審証人大沢小助、加藤忠安の各証言を綜合してこれを認めることができ、この認定を覆すべき証拠はない。

被控訴人は安永三年午九月の済口証文(甲第十号証)により、本件仙ノ倉日影平が大沢山秣場と共に長窪古町及び新町のみの入会山で、和田村(青原)は自ら何等の権利がないことを承認したと主張する。しかし、右済口証文は元々長窪古町と新町との間における別個の山論訴訟に関するもので、青原には直接関係なく、和田村名主は単に扱人としてこれに署名しているにすぎないこと、同号証の文面自体に徴し明かであるところ、その文中本件仙ノ倉に青原の入会を禁ずる趣旨は見受けられないし、その後明治十三年六月作成された前出乙第二十四号証によれば、長窪古町同新町は宝暦年度済口証文のとおり和田村に入会権あることを認めている事実を窺いうる故、被控訴人の右主張は事実に沿わざるものというべきである。

ところで右入会権に基く収益の態様は如何なる範囲のものであつたであろうか。本件係争の仙ノ倉日影平の区域は俗に入会秣山と呼ばれていたのであるが、それは入会により主として秣即ち田畑の肥養並に家畜の飼料等に供する草芝の類を刈取つていたためであり、往時にあつては営農上特に肥料としての草類刈取を重視していたこととて、係争地に多少の天然生雑木はあつても植林は行わず(乙第三号証には、林一切相立不申とあり)、概してこれを草生地のままに放置していたので、このように呼ばれていたものと思われる。しかし秣山といつても、入会村民が生活上の需要を満たすため、同所に自生する若小木及び下枝の類を切取つて薪、粗朶とすることは一般に行われていたものと見るべく、それは長窪古町新町作成にかかる前掲乙第一号証の訴状に、右両村民が仙ノ倉にて「秣薪取来申候」と記載されているのみならず、甲第五号証第八号証、当審証人小林大吉の証言により成立を認めうる同第六十二号証等の古文書にも同旨の文詞散見することにより窺いうべきところであり、前記宝暦年間両度の済口証文等に特に青原に対してのみ薪の採取を禁止制限した趣旨の記載は見当らないので、共同入会権者たる青原部落も長窪両町と同様、古来より秣と共に薪をも採取し得たのであり、且つ薪を必要とする山村の生活事情にして変りがない以上、引続きこれを採取していたものと認むべきである。このようにして青原区民が本件入会権に基き近時に至るまで秣並に薪の伐採を継続して行つて来たことは、成立に争のない甲第三十八号証の六、八の記載、原審証人城下はるき、竹内国勝、竹内金次郎、当審証人上原利平、羽田敬明、工藤悌、城下利三郎、大沢小助、加藤忠安の各証言、原審並に当審における各控訴本人の同旨の供述により、これを認むるに足り、右に牴触する証拠は採用し難い。そして青原部落民がその入会権を放棄し、若しくは事実上その入会行為を廃絶したような事跡はこれを確認するに足りる証拠がなく、(尤も化学肥料の発達に伴い耕地の肥料とするための草刈はその重要性減少し、旧時のように盛に草刈が行われることはなくなつたもののようではあるが)、従つて永年の不行使により、入会権が時効によつて消滅したとの被控訴人の抗弁は理由がない。

ところで、入会権の範囲は一般に秣、薪の伐刈に止り、炭焼並に建築用材の伐取に及ばないのを常態とするものというべきところ、本件仙ノ倉日影平における入会権の対象が特に秣、薪に限られずして炭焼並に用材の伐採をも内容とするものであることは、控訴人等の援用する各証言並に当事者本人の供述中、これと同趣旨の部分があるけれども、的確な資料の裏付なく、採用することができない(成立に争のない甲第三十八号証の八の笹井熊太郎の供述記載についても同様である)。よつてこの点については、次に付加する以外、原判決理由の説明を引用する。

一、控訴人等は、原審並に当審の検証現場において、青原部落の多数民家の柱、土台、井戸枠やさては神社の土台、柱、依田川堤防の合掌枠等にも、古きは百五、六十年新しきも数十年を経過する栗松材を使用しており、なお最近十年内に切り出した材木もあつて、それ等はいずれも同部落民が入会権に基き仙ノ倉日影平の係争地域より伐採したものであるとして、一々その使用個所を指摘して説明するのであるが、そのような時代にこれ等の材木が果して係争地より切り出されたものであるか否か、にわかに断定し難いところであつて、関係証人並に本人の供述だけではその事実を確認するに足りず、また近時青原部落民のある者が、係争地で立木を伐採し又は炭焼をした事実があつたからといつて、直ちに同部落に立木伐採の入会権ありとすることはできない。

二、仙ノ倉日影平における炭焼並用材採取の入会権に関しては、本件で提出された古文書文献類の上で、必ずしも明かでない。前示の如く仙ノ倉日影平は古来秣山又は秣場と呼ばれ、入会は主として秣を対象とし、併せて日常必要な薪をも刈取つていたことは、古文書に照らしこれを窺いうるけれども、乙第四十六号証の和田村備付絵図面に仙ノ倉を「山秣場」と表示してあること、及び甲第十六号証の一の「秣場民有地編入願」に「立木伐払来り云々」とあるだけでは、未だ青原部落に立木伐採の入会権があつたものと断定することはできない。

三、成立に争のない甲第二十四ないし第二十六号証第二十八号証第三十ないし第三十六号証第三十八号証の五第六十六号証第七十号証第七十一号証原審並に当審証人龍野広当審証人清水登平、小林大吉の証言により成立を認めうる同第二十一ないし第二十三号証第六十三ないし第六十五号証第六十七ないし第六十九号証第七十四ないし第八十号証第八十二ないし第八十七号証、当裁判所真正に成立したと認める同第二十七、第二十九号証、当審の証人清水登平、芹沢忠二郎、龍野広、小林大吉の各証言及び原審並に当審検証の結果によれば、長窪古町は明治三十六年頃町費を支出して仙ノ倉日影平に植林し、監視人を置いて見廻らせ、次で明治四十二年右日影平山林の立木一切を金二千円で売却し、全山を皆伐に付し(若小木を除く立木一切を伐採)、爾後一定の造林計画の下に長野県より補助金及び苗木の下付を受けて植林し、成林は自然木と共に同町のみが計画的に伐採し(同町民と雖も各自の自由伐採は許さず)て現在に至つていること、青原部落に立木伐採の入会権ありとすれば、このようなことは甚しき権利の侵害というべきであるから、当然長窪古町に対し抗議して然るべき筈のところ、嘗て一度も異議苦情の申入がなされなかつたことを認めるに十分である。このことは青原が用材等立木に対する入会権を有しないことを推認させる間接の資料となさざるを得ないのである。

以上の説明を要約するに、次の二点に帰する。即ち(一)本件仙ノ倉日影平の山林は、長窪古町の所有であつて、和田村又は同村青原の所有ではない。(二)和田村青原の住民は、右山林につき古来より入会権を有するも、その入会の範囲は、秣即ち草芝の刈取と自然生若小木や自然生樹木の下枝を採取して薪粗朶とすることに限られ、植栽木は勿論自然に生長した樹木でも炭焼及び建築の用に供する木材を伐採する権利を有するものでない。しかるところ、原判決添付目録記載の木材は、昭和二十六年十二月控訴人等が右仙ノ倉日影平の山林より伐り出したものであつて、右木材は仮処分を受け、その換価金二万三千二百円が現在供託中であることは、原判決認定のとおりであるから、これを引用すべく、右仮処分物件中には、控訴人城下快顕所有の山林から伐り出した木材二、三本混入している旨、原審の当事者本人尋問において同控訴人は供述するけれども、その供述は措信し得ない。それ故右換価金は本件仙ノ倉日影平の山林従つてその立木の所有者である長窪古町に属すべきこと明かである。

しかして長窪古町が昭和三十一年九月三十日長窪新町、大門町と合併して長門町となり、同町大字古町地区に本件山林を対象とする財産区が設置されたことは当事者間に争がないので、本件山林は同財産区の所有並に管理に帰したものというべきである。

然らば長窪古町の承継人たる被控訴人財産区は、本件山林が同被控訴人に属することを否認し、右山林につき立木伐採の入会権を主張して伐採した立木の換価金に関する権利の所属を争う控訴人等に対し、右山林の所有権確認と共に控訴人等が立木の伐採をなすべからざることを求め、且つ供託にかかる換価金の還付請求権が被控訴人に属することの確認を求めうべきものというべく、被控訴人の本訴請求は理由がある。次に控訴人等が和田村青原部落の住民として、本件係争山林につき、秣薪採取の入会権を有するに拘らず、被控訴人は現にこれを否認し、その権利の行使を容認せざる態度に出ている以上、控訴人等において被控訴人に対し、右入会権に基く権利行使を妨害せざるべきことを訴求しうべく、右限度における控訴人等の反訴請求は正当であるが、炭焼建築用材の伐採に関する入会権の主張は失当であつて、この部分の請求は理由がない。なお被控訴人は控訴人等が原審において専ら立木を対象として入会権の妨害禁止を求めながら、当審においてその入会権の内容として薪炭秣の採取をも付加主張することにつき異議を申述べたのであるが同一山林に関する入会権の範囲につき控訴審に到つてこれを拡張することは、訴訟法上何等妨げないところであるから、右の異議はもとより採用の限りでない。

然らば承継前被控訴人の本訴請求を認容し、立木伐採の入会権に関する反訴を棄却した原判決は正当であつて、その限りにおいて控訴は理由がなく、棄却すべきであるが、秣薪採取の入会行為につきその妨害禁止の請求部分を認容する関係上、原判決の一部を変更すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条第九十二条第九十五条第九十六条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 薄根正男 奥野利一 山下朝一)

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